
※登場人物は全て仮名です。
金曜日の夜、ベッドでスマホをスクロールしていた私の指が止まった。
フォローしている美容系インフルエンサーが、朝のルーティン動画で妙に黒光りする急須みたいなものでお湯を沸かしていたのだ。
「南部鉄器の鉄瓶で白湯を飲むと、鉄分補給にもなって最高なんです」
彼女はそう言いながら、湯気の立つカップを両手で包んでいた。
私は即座にコメント欄を開いた。
すると、そこには「私も買いました」「毎朝使ってます」「生活の質が上がった」という賛辞の嵐。
ちょっと待って、あの重そうな黒い物体、そんなに良いの?
翌朝、私はカフェラテを片手に南部鉄器について調べ始めた。
検索して最初に目に入ったのは、楽天市場の商品ページだった。
「南部鉄器 鉄瓶 0.8L 29,800円」
コーヒーを噴き出しそうになった。
急須に3万円?正気?
でも、レビューには星5つがずらりと並んでいる。
「一生モノです」「孫の代まで使えます」「買って後悔なし」
みんな揃いも揃って宗教じみたコメントを残している。
私は半信半疑のまま、Amazonも見てみた。
こちらも似たような価格帯。安くても2万円台後半。
ため息をついてスマホを置こうとした時、画面に広告が表示された。
「ふるさと納税で南部鉄器が選べます」
ふるさと納税?
そういえば去年、会社の先輩が「控除でほぼタダで高級肉が食べられる」と自慢していたやつだ。
私は勢いよく検索バーに「ふるさと納税 南部鉄器」と打ち込んだ。
ふるさと納税サイトを開いた私は、目を疑った。
寄付金額50,000円で、楽天で29,800円だった鉄瓶と同じようなものが返礼品として並んでいる。
しかも、控除の仕組みを調べると、実質負担は2,000円だという。
「ちょっと待って、これ本当?」
私は自分の年収を入力して、控除上限額をシミュレーションしてみた。
結果は72,000円。
つまり、70,000円分の寄付をしても、実質負担は2,000円で済むということだ。
電卓を叩く手が震えた。
普通に買ったら29,800円。
ふるさと納税なら実質2,000円。
差額27,800円。
これ、やらない理由ある?
私はすぐに親友のユミにLINEを送った。
「ねえねえ、ふるさと納税って知ってる?」
3分後、既読が付いた。
「知ってるよ。毎年お肉とか果物もらってる」
「南部鉄器も選べるの知ってた?」
「え、何それ。急須?」
「そう!しかも実質2,000円で3万円相当のやつが手に入るの!」
既読スルー。
5分経っても返信が来ない。
と思ったら、突然電話がかかってきた。
「あんた、何にハマってんの?」
ユミの第一声がそれだった。
「ハマってないよ。でもさ、考えてみてよ。どうせ税金払うなら、返礼品もらった方が得じゃん」
「それはそうだけど、急須に5万も寄付する?」
「鉄瓶だよ、鉄瓶。しかも一生モノなんだって」
「一生モノねえ。あんた、去年買ったル・クルーゼの鍋、何回使った?」
ぐさり。
確かに、あの鍋は棚の奥で眠っている。
「でもさ、これは違うの。毎朝白湯飲むし」
「白湯なんて電気ケトルで十分でしょ」
「鉄分補給にもなるんだって!」
「サプリ飲めば?」
ユミは容赦なかった。
でも、私の中では既に決まっていた。
この鉄瓶、絶対に手に入れる。
その夜、私はベッドの中で南部鉄器の動画を見漁っていた。
職人が鋳型に鉄を流し込む様子。
一つ一つ手作業で文様を彫る工程。
400年の伝統と技術。
気づけば深夜2時。
私は布団から這い出て、パソコンを開いた。
ふるさと納税サイトにログインし、岩手県奥州市の返礼品ページを開く。
0.8L、黒、アラレ文様。
寄付金額50,000円。
カートに入れる。
手続きを進める。
クレジットカード情報を入力する。
最終確認画面で、一瞬だけ躊躇した。
「本当にこれでいいの?」
でも、心の中でもう一人の私が叫んでいた。
「実質2,000円だよ!お得すぎるよ!一生モノだよ!」
私は決済ボタンをクリックした。
確認メールが届いた瞬間、なぜか全身の力が抜けた。
「やっちゃった」
でも、不思議と後悔はなかった。
段ボールが届いたのは、仕事から帰った平日の夜だった。
思ったより大きい箱。
丁寧に梱包された鉄瓶を取り出した瞬間、その重さに驚いた。
ずっしり、という表現がぴったりだ。
表面のアラレ文様は、写真で見るより遥かに美しかった。
一粒一粒が、職人の手仕事を物語っている。
私は早速、説明書を読みながら初回の空焚きを始めた。
火にかけること15分。
部屋中に何とも言えない鉄の匂いが広がる。
「大丈夫かな、これ」
不安になりながらも、手順通りに作業を進めた。
そして翌朝、初めて鉄瓶でお湯を沸かした。
火にかけてから沸騰するまで、約7分。
電気ケトルなら2分で済むところだ。
でも、その7分間が妙に心地よかった。
コーヒーの準備をしながら、時々鉄瓶を眺める。
黒い表面がガス火で温められ、少しずつ湯気が立ち上がる。
やがて、蓋がカタカタと音を立て始めた。
沸いたお湯でコーヒーを淹れる。
一口飲んで、目を見開いた。
「美味しい」
プラシーボ効果かもしれない。
でも、確かにいつもより味がまろやかな気がした。
会社に着いて、デスクでユミに会った。
「買ったんだ、結局」
彼女は私のInstagramのストーリーを見ていた。
「うん。で、実際すごく良いよ」
「どうせすぐ飽きるでしょ」
「いや、これは違う。毎朝使ってる」
ユミは呆れた顔をした。
でも、1週間後、彼女から連絡が来た。
「ねえ、あの鉄瓶、どこで寄付したの?」
私は笑いながら、ふるさと納税サイトのURLを送った。
あれから3ヶ月が経った。
鉄瓶は毎朝、私の朝のルーティンの中心にいる。
表面には少しずつ使い込んだ艶が出てきた。
内側には薄い湯垢の層ができ始めている。
これが育つということなのか、と実感する。
ユミも結局、同じ鉄瓶を寄付で手に入れた。
「あんたのせいで沼にハマったわ」
彼女はそう言いながら、嬉しそうに自分の鉄瓶の写真を見せてくる。
確かに、これは沼だ。
次は1.2Lの大きいサイズも欲しくなっている。
来年のふるさと納税では、南部鉄器の急須も狙っている。
でも、この沼は心地よい。
実質2,000円で始められる、一生モノとの付き合い。
これ以上のコスパ、他にあるだろうか。
私は今日も、鉄瓶でお湯を沸かす。
カタカタと鳴る蓋の音を聞きながら、幸せを噛みしめている。